昭和40年10月25日 朝の御理解



 信心をさせて頂いておって、もう色々分からない事が沢山、私共では数の数字の中にも割り切れれる数字と、割り切れないそれは、数字がある様なもの。どこまでも未知数の分からない、それを私共がこの解ろうとすると。信心もはっきり解る、いわゆる割り切れれる問題もあり、どんなに考えてみても割り切れない問題がある。信心とは私はその、割り切れなければおかげで、割り切れなければおかげではないと言う事はない。
 そういう風に信心が、何とはなしに分かって来るおかげを頂きたい。今日は沢山なことを色々頂くんですけれども、頂くんですけども私自身が分からない。結局信心とは、何時か頂きました『白という色の深さや陶の秋』と言った。白と言うその色合いは、まぁその、深さと言うものを分かると言うことは、やはり何とはなしに分かって行くのである。分からない、分からないけれども神様のご都合に違いはないと言う。
 それは飲めば甘い飲み物もあり、苦い飲み物もあり、又は飲めば飲むほど、飲むほどに酔うほどにというおうこの、自分の気分が変わっていくような飲み物もある。かと言うと又、水のように何の味わいもない飲み物もある。けれども、やはりその水の味が分かって行く、水の味が分かるという事。白の色が分かる、深さが分かるという事。そこに日常生活をいよいよ、地味豊かなものにして行く。
 椛目の場合は何か知らんけれど、言わば5と5を足せば10になるとか。10を2でわれば、5になるとか、と言った様にその結果を出して行かなければ、この、承知しないという訳でもないけど、そう言う様なものがあるんですけれども、そこんところの深さを愈々分からせて頂く信心にならなければいけない。昨日福岡へ行きまして、もう本当に期せずしてから期せずって言うか、そんな思いもしなかったんですけれども。
 渡辺先生の所へ寄らせて頂くことになって、あちらに参りましたら、高橋さんあたりにおいでられた方はご承知でしょうけれども、もうそれこそ何と言うでしょうか、もう何処へ行ってもどの部屋にでも、もう神経の使われるだぁけは、その使ってあると言うような、部屋の造りから、調度品置物一つにいたるまで、そういう言うならば何て言うでしょうかね、何か美術館にでも行ったような感じなんですけれどもね。
 成程ああいう中にあるから何処を見ても美しい、何処を見ても良い物があるんですけれども、と言うてまた、その何の飾りもない、お家にやらせて頂いてもう、その何の飾りもない中に、いわゆる日本のお座敷の、例えば美しさと言ったようなものは、飾りの無い飾りと言ったようなことを申します。愈々分からない言葉ですね。だから信心とはそう言う様なところが、この分かって行くことではないかとこう思います。
 信心とは飾りの無い飾りの味わい。何の味わいも無いような、言わばお水の味わい。言うならば白という色の深さということが分かって行くという事。割り切れる事だけが有り難いのではない、どんなに考えても割り切れない問題が沢山ある事、そこの中にいよいよ信心の深さ、味わいと言うものを分かって行くというおかげを頂かなければならん。まぁ言うならば、お芝居なら、昨日私、お芝居のお招待を受けて、しょね、それはもう、いわゆるまぁ面白い。
 だから、面白いから、なら又有り難いと言うことでもない。私共のように、ここに毎日ここ奉仕させて頂いてからお参りがあっても有り難いけども、ただじっとここに、その閑散な時に座らせて頂いておると言う事も又有り難い。信心っていうのはね、そこん所が分からなければ信心の本当の味わいと言うか、地味豊かなおかげは頂かれんとこう思うですね。その辺のところを一つ分からにゃいかん。
 言わば『白と言う色の深さや陶の秋』という、白の色の本当の深さ、いわゆる飾りの無い飾り。何かそこに飾りを付けなければ飾りではないような思い方、何かそこにおかげがはっきり見えなければ承知しないというのではなくてです、ね。形には見えないおかげの中におかげを感じれれる信心、そういうおかげを頂きたいと思う。今日私はずっと続けた、続けて頂いておったことは、どうもそんなことのように思うのです。
   どうぞおかげ頂かなきゃいけません。